海老の尻尾食べる?「目玉焼きの黄身いつつぶす?」に感化されて自分の食生活を考察してみた
人は何故些細な考え方の違いで衝突するのだろうか。
こんばんは、考える葦です。
突然ですが、おおひなたごう先生の「目玉焼きの黄身いつつぶす?」という漫画が大好きです。
「目玉焼きの黄身いつつぶす?」とは
日常において自分が当たり前だったと思っていた食べ方が実はマイナーだったかもしれないという千差万別の食べ方をテーマにした異色グルメ漫画作品。(wikiより)
このようなコンセプトの漫画です。
異色グルメ漫画というよりも「食文化漫画」というのが個人的にはしっくりきます。
自分の食べ方が世界の全てで、受け入れられない食べ方をしている人には「お前…バカか?」と暴言を吐く。
そんな主人公の田宮丸二郎が恋人や同僚の食べ方を否定しつつも、考え方を理解し、歩み寄って、人間的に成長していく。
一歩間違えれば「サイコパス野郎」と言えるキレっぷりも愛らしいのだが、何より他人を理解するためにおかしな食べ方を実践して、自分に落とし込む行動力が魅力的なんです。
恋人のみふゆ、二郎の良き理解者である近藤さん、着ぐるみアクターの同僚達。
人の数だけ食べ方があり、こだわりがある。
「あ、これ俺と同じ食べ方だ」
「え、なにこの意味わからん食べ方」
「この行動にはこんな意味があったのか」
など、色々な意見や感想があると思いますが、ここまで共感できるネタも少ないと思います。
多くの人が共感でき、実践でき、コミュニケーションに組み込める。
「目玉焼きの黄身いつつぶす?」素敵な作品です。
ということで、今回は自分自身の食べ方について考察してみました。
食べ方について理由づけや考察をしていくとすごく面白い。
人生観が出るというか、自分が何を重視して生きてきたかがよく分かります。
テーマは「海老の尻尾」です。
海老の尻尾食べる?食べない?
以前、友人とチェーンの天ぷら屋で食事をした時のこと。
私、大の海老好きでして、この日も海老が二本入っている天ぷら定食を注文しました。
サクサクの衣とプリプリの身。そして何と言ってもカリカリの尻尾がうまい。
尻尾は身とは味も食感も何もかもが違うが、旨味成分は凝縮されており、噛めば噛むほど味が出る。
またプリプリからカリカリに食感が変わることで飽きることがありません。
そんな海老の尻尾を愛でながら食べていたところ、
友人「え、なんで尻尾食べてんの?食べる意味が分からん」
私「は?おまえ…バカか?」
とは言いませんでしたが、いい機会なので
尻尾食べる派の私と、尻尾食べない派の友人とで議論することに。
海老の尻尾何故食べる?考察により自分のルーツを探る
「自分が何故、海老の尻尾を食べるか」を
①尻尾の味について
②尻尾の役割について
③海老を巡る家庭環境について
以上、3つについて考察をしてみた。
これにより、自分の食べ方を深く掘り下げることで、自分のルーツや考え方をより理解できることに気が付いた。
以下でそれぞれの考察をさせていただく。
お付き合いしていただければ有難い。
尻尾の味について。ただ単にうまい説
まず語るべきことは尻尾の味だろう。
海老の全てを凝縮したような旨味たっぷりの尻尾。
噛めば噛むほど味が出る、スルメ感。
尻尾を食べずして、海老本来の味が分かるものか。
海老の尻尾、鮭の皮、鳥の軟骨。
捨てられることも多い癖のある食材だが、好きな人には堪らない。
人が食べないものを好んで食べる、そんな粋な自分を演出できるアイテムでもある。
味もいいが通な自分をアピールできるオイシイ食材。
その一つが海老の尻尾である。
さて、海老の尻尾が美味しい、というのは覆らないがぶっちゃけ尻尾って必須なのかを考えてみる。
美味しいし、個人的には身よりも尻尾の方が旨味を感じる。
しかし、やっぱり海老と言えばプリプリな身。尻尾ではない。
海老と言われて身ではなく尻尾を想像する人も少ないだろう。
今でも尻尾は好きだが、一生海老の身が食べられないのと、一生海老の尻尾が食べられないの二つなら前者の方が辛い。
つまり、尻尾はメインには成り得ない。
いくら尻尾が美味しいと言っても自分自身がこの程度の認識だと根拠として薄い。
次は海老の尻尾の役割について考察する。
尻尾の役割について。海老の尻尾はソフトクリームでいう「コーン」説
次に主張したいのは「口直し」という役割について。
ソフトクリームは美味しい。
甘くて冷たいバニラアイスはもちろん主役だが、ひとくちかじれば単調な甘さが身を引き、メリハリのある食感を演出するコーンは名脇役と言える。
量の多いアイスを飽きずに完食できるのはコーンのおかげと言っても過言ではない。
似たものだと鯛焼きもそうだ。
鯛焼きの尻尾はあんこを入れずに作るのが主流。
あんこを食べてネッチョリ甘ったるくなったところに、口直しのカリカリの尻尾を投入。
お茶で流し込むのも乙なものだが、尻尾のおかげでもう少し長く、鯛焼きを味わうことができる。
海老の尻尾も食感を変化させることにより、飽きずに海老を食べることができ、何もつけずに味変までできるのだ。
私「即ち、海老の尻尾も同じく、海老を長時間楽しむための口直しだ!」
友人「ソフトクリームの話は分かるけど、海老は別やろ」
確かに。
海老って口直ししなくても無限に食べられるもんな。
塩、出汁、醤油、ソースとかでいくらでも味変できるし、根拠として弱い。
せっかくの機会だから別の視点から考察してみることに。
海老を巡る家庭環境について。子供時代の食生活が関係している説
海老の尻尾を食べるきっかけについて考察してみる。
海老の身にそのままついており、残されることが多いが実は美味しい。そんな脇役の中の脇役。海老の尻尾。
今では好物だけど、産まれて初めて海老を食べた時、尻尾は食べなかったはずだ。
幼少期も「海老の尻尾は食べなくてもいい」と教育を受けており、私の兄弟全員が尻尾を残す。
食べるのは私だけだ。
思い当たることは我が家の食卓には「大皿」料理がよく出されており、兄弟でよく取り合いをしていたことだ。
毎日の食卓が戦場で、唐揚げなどを一つでも多く食べようと兄弟全員が必死だったと思う。
引っ込み思案で少食だった私は特に戦場に飛び込むことはなかったが、エビフライだけは一つでも多く食べたかった。
それにエビフライだけはほとんど取り合いが起きなかった。
兄弟全員エビフライがそんなに好きじゃなかったから?
NO。
嫌いだったわけではない。
むしろみんな大好物だ。
取り合いにならなかった理由は、残した尻尾の個数により、誰が何個食べたかが明確になるからだ。
つまり、消費量の見える化により、公平に分配しなければならない、という意識が兄弟に芽生えてしまった。
兄弟が多い故の気遣いと、一つでも多く食べたい欲望が入り混じる。
食べたい盛りの子供達でも、何個食べたかばれてしまう環境なら抜け駆けせずに、勝手に個数管理をしてしまう。
管理されているが故の自制。
兄弟間ではじまる謎の牽制。
逆に言えばお互いに監視し合えば、全員が同じ個数が食べられる。
悪い話ではないのだ。
そこでエビフライだけは一つでも食べたかった私が考えたことは
「海老の尻尾を食べれば何個食べたかバレない」という圧倒的自己中なものだった。
はじめは美味しいから食べた訳ではない。
個数を誤魔化すために食べるうちに、海老の尻尾の味がだんだんと好きになっていき、今では食べずにいられなくなっている。
今では個数を誤魔化す必要もなくなったが、幼い頃から続けている癖は大人になっても抜けないものだ。
それに今では味も気に入っている。
友人からも興味深い意見が出てきた。
その友人の実家は定食屋で、食卓にも定食スタイルでご飯が出てくるそうだ。
つまり、家族全員に決まった数のおかずが配膳される。
少なくない家族でも全員の取り分が同じなら取り合いは発生しないし、一つでも多くおかずを食べるために画策することもない訳だ。
海老の尻尾を食べない根拠としては不十分かもしれないが、面白い対比だと思った。
結論
海老の尻尾を食べるのは何故か。
個人的に考察をしてみたが結論は以下となる。
・私が海老の尻尾を食べ始めたルーツは食べたエビフライの個数を誤魔化すため。
・隠蔽を続けるうちに味自体が気に入り、今でも食べ続けている。
・幼少期の食事体験が現在の自分を形作る。つまり私は自己中。
「そういうものだ」と思考停止せずに、複数の視点から物事を見て考察する。
議題としてはしょうもないかもしれないが、自分のルーツを探るいいきっかけになったと思う。
食事の仕方は人それぞれで、理由なんてないのかもしれない。
それでも考え抜くことで自分の中で納得のいく答えを出す。
食べ方は人生観であり、哲学だ。